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父が魚釣りをやめた理由

私が小さい頃、父はよく釣りに行き、ほんとに沢山の魚を釣ってきては自分でさばき、当分食卓に上っていました。
中でも私が好きだったのはベラという魚。綺麗な斑点がある魚ですが、スーパーではあまり見かけないかな?
以前、銭ゲバというドラマで松ケンさんが好物だと言って、お店で食べていましたが・・・懐かしかったな。

その当時、うちには狭い庭があったので、七輪でベラを焼いて食べるとすごく美味しかったのを覚えています。
小学校低学年頃の話なので、記憶が曖昧ですが、ほかの魚で覚えてるのは鮎くらいかな。もっと沢山の種類の魚がいたはずなのに、思い出せない!鮎は毎年、解禁になるとすぐ釣りに行き、数百匹釣ってきてたので、数匹ずつパックして、冷凍保存で一年中食べることができました。

ずっとあとの話になりますが、結婚式のときに父の友人を代表して『3つの袋』の話をしてくれた人が、いつも父と鮎釣りに一緒に行ってました。その人は泳げなかったそうで、胸まであるゴムのズボン・・・長靴が一体になってるのを穿いて、川の中で鮎を釣ってるときに、足を滑らせたのか、流れがきつかったのか、倒れてしまい、逆さになったまま起き上がれなかったのでしょう、下流にいた父のところに、先にその人の麦藁帽が流れて来たそうです。父の不吉な予感は的中し、しばらくすると、その人がうつぶせになったまま、流されてきたそうです。

父はひどくショックを受けて、それ以後、大好きだった魚釣りは一度も行かなくなりました。父はその頃60代だったかな。まだまだ魚釣りができる年齢だったのに、かわいそうなことでした。
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父の脳梗塞

父が脳梗塞で倒れたとき、私の家に電話があった。実家の電話の子機、ボタン一つでうちに電話が掛かるようにしてあって、本当によかったと思った。父の場合手足が麻痺することはほとんどなかった。ろれつが回ってなかったので、変な酔っ払いのいたずら電話かと思ったくらいだった。辛うじて声で父とわかってよかった。よくわからないけど、「お父ちゃん、もうあかんわ」っていうのが聞こえた。
緊急性があると思い、救急車に先に行ってもらうことにした。パトカーと消防車と救急車が連なって行ってくれた。通報してから4分ほどで実家に着き、そして、5分後には病院に着いたようだった。鍵が掛かっていたので、二階のベランダから窓ガラスを割って入ってくれた。

私たちが着いてから救急車を呼んでたのでは父が助からなかったかもしれない。想定しなかったけど、消防車の梯子で二階に入ってくれたので、父を運び出したあと、玄関も鍵を掛けてまた、二階から出てくれたので、私たちが実家に寄らずにすぐ病院に迎えたのがよかった。

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父と職人さん

職人さんが沢山いたのは私が小学校2年くらいまでだったかな。

父は大の野球好きで、職人さんたちと1チーム作って、他の鞄屋さんとかと対抗試合をよくやっていました。
練習は桃ヶ池公園や白鷺公園でやってたと思います。
その頃、忘れもしない家の物干し台で飼っていた伝書鳩を、野球場に連れて行っては着いたことを知らせるのに鳩を放すのです。帰ってきた鳩を見て、無事着いたことが分かりました。

母が娘の教育上よくないからと、職人さんの住み込みをやめて、通うように変えていってくれました。母の判断は間違ってなかったと思います。少々手遅れなこともありました。

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父の仕事の続き

父の仕事の続きです。

学生鞄の製造販売のほかに、ランドセルのブローカーもやっていました。

近所の人に頼まれたりして、よく取り寄せて売っていました。

ランドセルの箱がうちの二階によく積んであったのを覚えています。

その頃、牛革のほかに軽くて強いというクラリーノという素材が出回りだしたころでした。

どっちにする?ってよく聞いてましたね。

                                   

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父の仕事

父は自営業で、学生鞄を作っていました。
畳2畳分弱くらいの大きさの牛革を和室に広げて、一番沢山鞄が取れる置き方に印をつけていたように思います。
幅6cmほどの木の長いサシがあり、皮を切る包丁を使い、ばん板の上で切っていました。

鞄作りの道具など、父の遺品


我が家は6軒長屋の端から2軒目。幅が2間ほどで奥行きが長かった。奥にあった前栽を無くし、板の間にして作業場に当てていました。母も手伝っていました。

いつも父が奥の部屋にいて、歌のうまい父はいつも歌ってました。母は父のそばにいて手伝うか、台所で食事を作るか、買い物に行ってるかであまり一緒に遊んだりしてくれない母でした。

小さい頃はよく買い物について行き、ちりめんじゃこや、荒く削った鰹節を店先からそっと取って(盗んでとも言う・笑)食べていました。当時、ちりめんじゃこは一升マスで量リ売りだったと思います。鰹節も大きな金属製のスコップですくって紙の袋に入れて、量りで量ってたように記憶しています。
商店街という所をブラブラ母について回るのが好きでしたね。

私が小学校の2年くらいまでは、弟子入りした職人さんが、約7人ほど、大半が住み込みで、二階に寝ていました。食事のときは家族3人を入れると10人くらいでした。人数が多いから、母は朝に昼にと買出しに行っていたようです。

父は15歳から丁稚奉公をして、鞄作りの技術を身につけ、20歳くらいの時に早々と独立して、知り合いや親戚の人を雇い、弟子として鞄作りを教えていきました。

当時、高校生がよく持っていたような鞄がそうです。今はどんな鞄を持ってるかな?
当時全部手作りで、色んな細かいアイデアは、父が出して自分で作っていました。

もちろん、私のも父が作った学生鞄でした。
色はグリーンだったと思います。

                           

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ペガサスママ

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大阪のおばちゃんです。
面白い話を思い出したらボチボチ書いていこうと思います。
昨日のことより子供の頃の話が鮮明だったりします(笑)

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