FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

よく覚えてる先生達  -その1ー

小学校5年の時、担任になった松田先生。
左足が真っ直ぐで引きずるような歩き方をされていた。戦争で銃弾が左足の太ももを貫通したみたいで、プールのときにその傷跡が見えた。年は50歳くらいだったかな。授業とか教え方とか思い出せないんだけど・・・・すみません。傷跡だけ鮮明に思い出す感じが、不思議。やさしい先生だったと思う。

小学校6年の担任、谷口先生。
顔が黒くて大きくて、眼がぎょろっとしてて、一見怖い感じの先生。声もトーンが高かったと覚えてる。
この先生のときに授業中クラスの席を縦割りにしたグループで、毎回の授業で先生の質問に対する正解数をグループ対抗で黒板に書いていった。一日の終わりに一番成績の悪かったグループが掃除当番をするという決まりがあった。多分先生が提案して皆喜んで賛成したかもしれないが、当時クラスには頭の良い子が数人際立っていたので、その子と一緒のグループになってるかどうかが掃除当番するかしないかの決め手になっていた。
先生の質問は教科書にあることには限ってなかったので、結構面白かった。
多分、年間通してするには至らなかったと思う。不平等ということを皆段々感じていたのかもしれない。
スポンサーサイト

テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

父の脳梗塞

父が脳梗塞で倒れたとき、私の家に電話があった。実家の電話の子機、ボタン一つでうちに電話が掛かるようにしてあって、本当によかったと思った。父の場合手足が麻痺することはほとんどなかった。ろれつが回ってなかったので、変な酔っ払いのいたずら電話かと思ったくらいだった。辛うじて声で父とわかってよかった。よくわからないけど、「お父ちゃん、もうあかんわ」っていうのが聞こえた。
緊急性があると思い、救急車に先に行ってもらうことにした。パトカーと消防車と救急車が連なって行ってくれた。通報してから4分ほどで実家に着き、そして、5分後には病院に着いたようだった。鍵が掛かっていたので、二階のベランダから窓ガラスを割って入ってくれた。

私たちが着いてから救急車を呼んでたのでは父が助からなかったかもしれない。想定しなかったけど、消防車の梯子で二階に入ってくれたので、父を運び出したあと、玄関も鍵を掛けてまた、二階から出てくれたので、私たちが実家に寄らずにすぐ病院に迎えたのがよかった。

テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

小学校時代の遊び

学校に上がる前は隣の男の子とべったんをしたり、向かいの男の子とビー玉をしたりしていました。隣の子は2つ年上、お向かいさんは3つ年上でした。隣の子はしゅうちゃんと呼んでいましたが、べったんが強いので、いつも私が「しゅうちゃんにべったん全部取られた~」って帰ると、父がしゅうちゃんから取り返しに行ってくれました。「小さい子から取って面白いか!」ってな感じでしたかね。まもなく遊ばなくなったかもしれないね。向かいのまーちゃんは譲二ちゃんと同い年なので、譲二ちゃんも一緒に遊んだような気がするんだけど、定かではありません。
とにかくうちの家は職人さんがいっぱいいたので男の子の遊びはすぐ教えてもらいましたし、近所に一緒に遊べるような幼い女の子がいなかったというのがありますね。

小学校の2年生くらいまでは近所の同級生達とよく外で遊びました。
神社の境内で缶蹴りをしたり、墓場でかくれんぼしたり、うちの家の前でゴム飛びをしたり、前回写真を載せましたが通りゃんせして遊んだり。結構皆仲良く遊んでいましたね。ゲームとか無い時代って感じですが、段々テレビに面白い番組が出てくるようになると、外で遊ばなくなった。ていうか勉強が忙しくなって私は誘いに来てもらってもあまり外で遊ばなくなりました。理由は太ってきたからというのもあったかもしれません。太ったせいで運動が苦手になったというのがあったみたい。鬼ごっこしてもすぐ捕まるしね。

でも、ほんとにその頃から勉強に興味を持つようになったみたいで、3年生からは学年が変わるとなぜか私が学級委員にならされるんですね。クラスの投票だから私のこと知らない人も多いのに。未だによくわからないんですが・・・中学を卒業するまで毎年学級委員になってましたが、未だになんで選ばれてたか、よくわかりませんね~。私は人前でしゃべるのが苦手で、学級委員になるのが嫌でしたが、何とか友達に助けてもらいながらやってたのかな~?嫌ですっていうのも言えないくらい気が小さかったと思います・・(笑)

テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

とおりゃんせ 

とおりゃんせ

うちの家の前あたりで「とおりゃんせ」して遊んでる写真がありました。

男の子の名前だけ思い出せないな~

小学校2年生頃かな。

通ってる子が私ですが・・・ちびまるこちゃんみたいな髪型ですな。



テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

昭和32年頃の写真

私とじょーじジョージと私

譲二ちゃんと私の写真が実家にあったので写メ撮ってきました。

昭和31~32年くらいかな。

ひろえ

私何歳かよくわからないです。多分3歳から5歳くらい?
それにしても、ふてくされた顔してますな~(笑)

ケンさんの話

さて、無事ケンさんと教会で結婚式をあげた美智子おばちゃん。
結婚式の写真があったらアップしたいところですが・・・出てきたら絶対アップしますね。

おばちゃん、その頃から写真が好きだったのかな。家の写真や家族の写真をたくさん送ってきてくれました。
家は横長の平屋。庭にはプール。隣の家まで100mくらいあって、その間に畑が出来そうな広い土地がありました。
車はベンツが2台。一人一台は必ず必要とのこと。メルボルンの郊外に住んでいたので、便利は悪いかも?
車で買出しに行くからどってことないよって感じでした。

私が中学や高校生のときに、ケンさんが商用でアジア、日本を訪問するとき、おばちゃんも一緒でした。
泊まるのは当時はプラザホテルかロイヤルホテルの一番高い部屋だったみたいで、値段を聞いて超びっくり。
羨ましかったですね~。そんな大金持ちに嫁に行くなんて、すごい福運。どんないいことしたらそうなれるのって感じですね。ヤーさんとの同棲から一挙に何もかも変わった人生です。

中学から英語が好きだった私は、Maryというケンさんの前妻さんとの娘さんを紹介してもらいペンフレンドになりました。年下のMaryとの間にすごい文化の違いを感じながら手紙を書いていました。
何ていうか、今の日本でもギャルと言われる人達のようなイメージです。服装とかアクセサリーとかの話だったり、私が思ってたのとはちょっと違う世界。だから面白かったですけどね。英語が達筆すぎて(?)読みづらかったりして、意味もわからないことが多く、辞書を引いても辞書が役に立たないことも多かったです。
段々疎遠になり自然消滅、いつまで文通してたか覚えてないです。



一度おばちゃんがついて来なくて、同じ会社で働く息子さんを連れて来られたことがありました。
私の実家に来ていただき、ご馳走しました。その時は和室にダイニングのテーブルを持って行って座ったことを覚えています。和洋折衷!靴は玄関で脱いでもらいましたが!(笑)

実家は木造2階建ての6軒長屋。奥行きがありすぎて(笑)、外が見えない閉鎖的な家。(外が見えるのは一番奥の部屋の窓とトイレの窓だけ・・・おそらく日本の住宅にびっくりされたんじゃないかな。オーストラリアでは一軒もないと思うな~。

そういう珍しい日本家屋を見るのがよかったみたいで、喜んで帰って行かれました。
実際には呆れておられたかもしれないですが・・・(笑)


テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

いとこの話

さて、おばちゃんの話の続きです。

ちょっと遡りますが、私がまだ小学校3年くらいまでの話。
当時堺市に公団に住んでいたおばちゃんは譲二を浜寺の水泳学校に入れていました。
勉強は得意ではなかったという譲二は水泳なら人よりうまくなれると信じて、毎年通っていました。
気がついたらたて泳ぎもできるとか、遠泳もすごくできるとか言ってたような。
私と母もよく浜寺のプールに泳ぎに行きましたが、帰りにおばちゃんのうちに寄らせてもらうことも多かったです。

おばちゃんは結構かっこいい車に乗っていました。当時は女の人が車を運転することは珍しかったです。車でプールまで迎えに来てくれたこともありました。

メトロというところでナンバーワンだと言っていましたが、私には何のことか想像のつかない話でした。
きれいなネックレスや指輪もいっぱい持っていましたが、それをもらったのはおばちゃんがいなくなる前でした。

メトロで外国人のお客さんが来ると、英語のできるおばちゃんが呼ばれるので、その時出会ったのがオーストラリア人のケンさんでした。貿易商社の社長をしていたので、毎年日本の商品を仕入れに来て、その度におばちゃんと会ってたみたいですね。何年掛かったかは知らないけど、譲二が中学1年くらいのときにケンさんが結婚してくれるというので、オーストラリアに譲二を連れて行きました。

ケンさんはおばちゃんより一回り年上でした。オーストラリアに行ったのがまだ40才前だったので、おばちゃんとの間に赤ちゃんが生まれました。おばちゃんにしたら、譲二のあと13~4年は間が開いてたから大変だったと思うんだけど、とにかく強い人だと感心します。
ケンさん自身すでに4人か5人子供がいると聞いていましたが、奥さんが浪費家で家庭的ではなかったので、離婚が成立して、晴れておばちゃんと再婚したとのことでした。




いとこ

父は4人兄弟の末っ子だった。父が若い頃にあとの3人は皆結核で亡くなったので、自分も結核にならないようにと、丁稚奉公の時にもマスクをして働いていたそうだ。母との出会いはあまり詳しくは聞いてないけど、父が丁稚奉公してるときに出会っていると思われる。(詳しく聞いておけばよかったな)

赤紙が来たりする頃身体検査も受けたみたいで、体の具合によって甲乙丙が決められたそうです。
「お父ちゃんは丙やから戦争に行かなくて済んだんや。その代わり瀬戸内海の造船所で働かされたり、ある時は馬の世話をさせられたりしたわ」って言ってました。父がそんなことをしているとき、母は父の父親(つまり私の祖父)の世話をしに岡山の山奥に行かされてたみたいで、そこで父の姪っ子の美智子さんと一緒に住んでいました。

美智子さんは非常に綺麗な人で、なんと生き方がめちゃめちゃ波乱万丈!!!
私にとってはいとこですが、歳が24歳も離れているので、いつも『おばちゃん』と呼んでいました。
母と一緒に岡山の山奥に住んでいたときの話。鶏の首をねじって殺したり、ウサギを殺して食べたりと、おばちゃん結構強烈な生命力の持ち主で、生きるためなら何でやったるでって感じの女の子だったそうです。母より9つ年下だったから母が21歳でおばちゃん12歳!

記憶にある限りの小さな頃から、多分3歳くらいからかな・・おばちゃんが家に来るときいつも連れて来ていた男の子が気になっていました。幼いなりに恋心が芽生えていたか?(笑)
おばちゃんは英文タイプを習っていたので、戦後進駐軍がまだ日本にいたときに、アメリカ兵と仲良くなったらしい。

そのアメリカ兵と田舎の田んぼの畦道を車で走ってるときに、誤って車が田んぼに落ちて、偶然そこにいた農夫を死なせてしまった。アメリカ兵は強制送還され、おばちゃんは泣く泣く彼と離れ離れになる。その時お腹にいたのが譲二。何度もアメリカに手紙を書いたそうですが、彼からは返事が来なかったとか。時代が時代なんで会いに行くこともできなかったのでしょうね。
おばちゃんはシングルマザーの先駆者かな。生んで育てるのも大変だったと思うし、増して外国人との間にできた子を育てるって勇気が要ったかも知れません。時代が時代ですからね。

譲二はほんとにかわいくて子供のときにモデルやテレビの子役の話も来たそうですが、おばちゃんは一切断ったそうです。見世物になると思ったのかな。

一方で譲二は「金髪の子!金髪の子!」と散々学校でいじめられたそうです。今もそういうことはよくあると思うのですが、毛色が変わってるだけで、日本人はいじめたりするんですよね。性格もいいし、悪いところはなくても『外人の子』っていうレッテル貼られていじめの対象になることがある。
おばちゃんは日本に居ては譲二がかわいそうだと思ったのか、やがて30代後半でオーストラリアに移住することを決意します。



テーマ : みんなに紹介したいこと
ジャンル : ブログ

当時のお年玉

小学校の頃はまだ、父の仕事の得意先の人や父の友人がお正月に遊びに来ては、私にお年玉をくれたりしていました。一人が1万円くらいくれるので、結構小学生としてはお金持ちでしたね~。

その代わり父は出て行って相手先の子供さんにあげてこないといけないから、「わしゃー貧乏する」って言われてたなぁ。
そんなん知らんがな・・・と子供の私は、父のおかげでお年玉が沢山もらえることをそれほど感謝してなかったかもしれない。今思うと申し訳ない話です。
私が小学校3年くらいまでだったかな~うちの家に3人~4人の父の悪友が集まり、花札やかぶで遊んでいるのをよく見ました。
私は「あっち行っとき」って追い出されましたが・・・お金賭けてやってたんだよね。
(ぐるっとお見通しだい!)
父はマージャンしない人なので、私は家族で花札をして遊んだりしました。

父の友人でタクシーで帰ったら、万札しかなく、おつりが無いといわれ、近くにあった店で宝くじを一枚だけ買ってタクシー代を支払ったら、後日その一枚で100万円当選したっていう・・・結構ラッキーな話があったな。悪人ほど悪運強いって母が言ってましたね~。


テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

父と職人さん

職人さんが沢山いたのは私が小学校2年くらいまでだったかな。

父は大の野球好きで、職人さんたちと1チーム作って、他の鞄屋さんとかと対抗試合をよくやっていました。
練習は桃ヶ池公園や白鷺公園でやってたと思います。
その頃、忘れもしない家の物干し台で飼っていた伝書鳩を、野球場に連れて行っては着いたことを知らせるのに鳩を放すのです。帰ってきた鳩を見て、無事着いたことが分かりました。

母が娘の教育上よくないからと、職人さんの住み込みをやめて、通うように変えていってくれました。母の判断は間違ってなかったと思います。少々手遅れなこともありました。

続きを読む

テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

父の仕事の続き

父の仕事の続きです。

学生鞄の製造販売のほかに、ランドセルのブローカーもやっていました。

近所の人に頼まれたりして、よく取り寄せて売っていました。

ランドセルの箱がうちの二階によく積んであったのを覚えています。

その頃、牛革のほかに軽くて強いというクラリーノという素材が出回りだしたころでした。

どっちにする?ってよく聞いてましたね。

                                   

テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

父の仕事

父は自営業で、学生鞄を作っていました。
畳2畳分弱くらいの大きさの牛革を和室に広げて、一番沢山鞄が取れる置き方に印をつけていたように思います。
幅6cmほどの木の長いサシがあり、皮を切る包丁を使い、ばん板の上で切っていました。

鞄作りの道具など、父の遺品


我が家は6軒長屋の端から2軒目。幅が2間ほどで奥行きが長かった。奥にあった前栽を無くし、板の間にして作業場に当てていました。母も手伝っていました。

いつも父が奥の部屋にいて、歌のうまい父はいつも歌ってました。母は父のそばにいて手伝うか、台所で食事を作るか、買い物に行ってるかであまり一緒に遊んだりしてくれない母でした。

小さい頃はよく買い物について行き、ちりめんじゃこや、荒く削った鰹節を店先からそっと取って(盗んでとも言う・笑)食べていました。当時、ちりめんじゃこは一升マスで量リ売りだったと思います。鰹節も大きな金属製のスコップですくって紙の袋に入れて、量りで量ってたように記憶しています。
商店街という所をブラブラ母について回るのが好きでしたね。

私が小学校の2年くらいまでは、弟子入りした職人さんが、約7人ほど、大半が住み込みで、二階に寝ていました。食事のときは家族3人を入れると10人くらいでした。人数が多いから、母は朝に昼にと買出しに行っていたようです。

父は15歳から丁稚奉公をして、鞄作りの技術を身につけ、20歳くらいの時に早々と独立して、知り合いや親戚の人を雇い、弟子として鞄作りを教えていきました。

当時、高校生がよく持っていたような鞄がそうです。今はどんな鞄を持ってるかな?
当時全部手作りで、色んな細かいアイデアは、父が出して自分で作っていました。

もちろん、私のも父が作った学生鞄でした。
色はグリーンだったと思います。

                           

テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

プロフィール

ペガサスママ

Author:ペガサスママ
大阪のおばちゃんです。
面白い話を思い出したらボチボチ書いていこうと思います。
昨日のことより子供の頃の話が鮮明だったりします(笑)

最新記事
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

08月 | 2010年09月 | 10月
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -


最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク
my favorite
私が使っているもの
無添加化粧品はHABAで
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

RSSリンクの表示
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。